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名古屋高等裁判所 昭和30年(ネ)403号 判決

控訴人 寛永幸

被控訴人 岐阜県 外二名

主文

本件控訴を棄却する。

控訴費用は控訴人の負担とする。

事実

控訴人は、「原判決を取り消す。被控訴人等は連帯して控訴人に対し金一万円及びこれに対する本件訴状が被控訴人等に送達された日の翌日以降右完済に至るまでの年五分の割合による金員を支払わなければならない。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人等の負担とする」との判決を求め、被控訴人等の各代理人は、いずれも主文同旨の判決を求めたほか、原判決事実欄の記載と同一である。

〈証拠省略〉

理由

まず控訴人と被控訴人県との間の訴訟について検討する。

本訴を不適法として却下すべき旨主張する被控訴人県の各抗弁はいずれも不当なものと判断する。その理由は右の点に関する原判決理由欄の記載と同様である。

本案につき案ずるに、控訴人が、岐阜県から地方教官に任ぜられて大垣市所在の岐阜県立大垣工業高等学校に勤務していたころ、昭和二十三年四月六日に当時同校の校長であつた被控訴人那須から出勤停止の通告を受け、次で被控訴人県から同年六月三十一日附をもつて「官吏分限令第十一条第一項第四号により休職を命ずる」旨の休職処分を発令され、同年七月二十七日にその旨記載した辞令書を被控訴人那須を通じて受領したこと、行政事件訴訟特例法所定の出訴期間内に行政訴訟の提起なく、右休職処分が確定し、控訴人が官吏分限令に基き所定の休職期間の満了により当然に退官となつたこと並びに岐阜県教育委員会が、昭和二十四年五月十九日控訴人に対し、昭和二十三年六月三十一日附の右休職辞令取消の通告をすると同時に、改めて被控訴人県を作成名義人とする昭和二十三年六月三十日附の休職辞令書を送付し、その通告及び辞令書が当時控訴人に到達したことは、当事者間に争がない。

そして成立に争のない甲第二号証及び甲第七号証、原審における被控訴本人那須武雄(第二回)の供述によつて真正に成立したものであることが明かな甲第一号証及び甲第八号証並びに原審における証人内山豊国の証言によつて真正に成立したものであることを推知し得る甲第五、六号証と原審における証人矢野定見、同野島多蔵、同内山豊国、同宮保信一、同杉山恭(第一、二回)、同大当宏、同横山吉雄、控訴本人、被控訴本人岩本晉一郎及び同那須武雄(第一、二回)の各供述並びに当審における証人藤本実の証言とを総合して考察すれば、控訴人及び被控訴人那須はいずれも昭和二十三年三月末の学制改革以前大垣市所在の岐阜県立第二工業学校に勤務し、被控訴人那須は昭和二十三年四月同校教頭より同校校長に昇格したものであるところ、同年八月同校校舎が講堂及び化学実験室を除いて火災により焼失し、生徒千二、三百名を擁する同校はたちまち授業に支障を生じたので応急措置として会社の工場等を借り受けいわゆる二部教授を実行して授業を維持すると共に、被控訴人那須以下の同校職員は速かに校舎の復興を図ることとし、生徒、PTA、同窓会その他の協力援助を得て焼跡の整理、復興資金の募集等に尽力して来たこと、右火災の原因については、警察署、検察庁等において極力捜査をしたけれども、これを糾明するに至らず、結局において出火原因は不明ということになつたこと、同校職員は前校長青木虎之助の時代より必ずしも融和せず、特に控訴人はいわゆる硬骨漢であつて協調性に乏しくややもすれば校長等と対立する傾向にあつたのであるが、右火災後、控訴人は、教官野島多蔵、同宮保信一等を糾合して同人等と共に、出火原因は内職としてズルチン等の製造販売をしていた教官中島弘が同校化学教室においてその製造のために使用した電熱器の過熱による失火であるとなし、しかも被控訴人那須は右中島が校内でその製造をすることを黙過していたのであつて責任極めて重大であるが責任回避のために出火原因の探究をしないものであると非難し、復興事務よりも出火原因の糾明が先決問題であると強調し、教官内山豊国等と協議の上「出火の真因糾明希望者人名簿」を作成して各職員の署名を求めたほか、復興資金募集に関する職員会議等の席上「速かに火災の責任者を出せ」と絶叫して議事妨害の挙に出たり、資金募集依頼状の宛名等を職員が分担して記載するという職員会議の決議事項に服従しなかつたり、校外において「火災の原因がはつきりしないのに、復興資金の募集なんかする必要がないではないか」と言い触したり、職員生徒等が焼跡整理作業に従事している際にこれを傍観していたりするというような言動をし、被控訴人那須の学校行政を攻撃して、同被控訴人と対立抗争し、校内職員間の融和を破壊したので、被控訴人那須は、困惑して、当時被控訴人県の教育部長であつた被控訴人岩本に対し、控訴人、右野島及び宮保の三名は教育に低調であり学校の復興を阻害するものである旨を内申して善処方を求めたこと、被控訴人岩本は、直接また視学杉山恭等を通じて、学校の職員、生徒、同窓会、PTAその他の各方面について調査をしかつその意見を徴した結果、被控訴人那須の右内申と同一結論に到達したので、学年末が接近した昭和二十三年三月二日被控訴人那須に対し、種々調査の結果右三名は同月末実施さるべき学制改革後の高等学校教官として勤務するには不適任であるから退官を勧奨されたい旨の通告を発し、被控訴人那須は、これに基き、同月二十二日頃右三名に対しその旨を告知して順次退官方を勧奨し、被控訴人県とその所属教職員労働組合との労働協約によつて当時右組合内部に設置されていた各人事委員会もその頃審議の上それぞれ大多数をもつて右退官勧奨を妥当と認める旨の決議をし、結局において右宮保は退官を内諾し(同年六月退官願提出、同年十月頃退官発令、その後石川県下の学校に就職)、野島は被控訴人県のあつせんによつて他府県下の学校に転出することに内定(同年六月末頃静岡県下の学校に転出)したけれども、控訴人は頑として退官勧奨等を応諾しなかつたこと、同年三月末実施の学制改革により右第二工業学校を編成替して岐阜県立大垣工業高等学校が設置され、被控訴人那須は右高等学校校長に就任し、控訴人ほか二名は同校にその定員外の職員として勤務することとなつたが、被控訴人那須は、被控訴人県教育部からの通知により、同年四月六日控訴人ほか二名に対し、行政上の措置として、同月七日より出勤の必要がない旨の出勤停止の通告をしたこと並びに控訴人は、同年五月下旬頃右組合の組合員大橋某ほか一名より「組合としては岩本部長の言うとおり退官としてもらうよりほかに方法がない」旨の申入を受け、また被控訴人那須より「退官しないと官吏分限令により休職になる」旨を告知されたが、退官を承諾せず、ついに被控訴人県から前記のとおり同年六月三十一日附の休職辞令書を受領するに至つたことを認めるに十分である。甲第十一、二号証の各記載並びに証人野島多蔵、同宮保信一及び控訴本人の各供述のうち、右認定に反する部分並びに「被控訴人那須の内申は虚構の事実に基くものであつて、被控訴人岩本は、そのことを承認して、退官勧奨及び出勤停止をその後取り消した」という趣旨の部分はにわかに信用することを得ない。

控訴人に学校の復興を阻害する言動のあつたことは、前記認定事実に徴して明白である。そして本件各証拠を精査しても、控訴人が生徒に対する授業に不熱心であつたとか、控訴人の授業内容が貧弱であつたとか、その出勤率が悪かつたとか、いうような事情を肯認することはできないけれども、控訴人が協調性を欠き授業の遂行上早急を要する学校の復興を阻害する言動をし学校復興に関する校長の学校行政を攻撃して校長と対立抗争し職員間の融和を破壊したこと前記のとおりである以上、控訴人は結局において教育に低調であると批判されてもやむを得なかつたものといわなければならない。されば被控訴人那須、同岩本等において控訴人を批判して教育に低調であり学校の復興を阻害するものとしたことは決して虚偽虚構の判断ではないから、この点に関する控訴人の主張は採用することを得ない。

現行日本国憲法当時施行存在した官吏分限令(旧憲法下における勅令)の規定は、同令第十一条第四号をも含めて当時の規定全部につき、同憲法第七十三条第四号第百条第二項及び昭和二十二年四月十八日法律第七十二号日本国憲法施行の際現に効力を有する命令の規定の効力等に関する法律第一条により、同憲法施行の日なる昭和二十二年五月三日から同年十二月三十一日まで現行憲法下における法律と同一の効力を有していた。その間同年十月二十一日法律第百二十号国家公務員法が制定公布されたが、同法の官職の基準に関する規定その他の大部分の規定は昭和二十三年七月一日から施行されることに定められたので、昭和二十二年十月二十一日法律第百二十一号国家公務員法の規定が適用せられるまでの官吏の任免等に関する法律(昭和二十三年一月一日から施行)により、前記官吏分限令の規定等は更に昭和二十三年六月三十日まで法律と同一の効力を保有しつつ存続することとなつたのである。なお同令の第十一条第一項第四号その他の規定は憲法第十一条乃至第十三条第十五条第二十五条第二十八条等の規定に違反しないから、官吏分限令の全部または一部の規定が憲法の施行と同時に効力を失いまたは憲法違反として無効である旨の控訴人の主張はすべて不当である。

昭和二十三年七月十五日法律第百七十号教育委員会法第七十二条第七十三条等により、都道府県教育委員会は同年十一月一日に成立したのであり(岐阜県教育委員会が同日成立したことは、証人杉山恭の第二回目の証言に照して明らかである)、しかも同法第七十一条により、同法施行後も教育委員会が成立するまでは、教育委員会が行うべき事務は、なお従前の例により、従来の各担当機関の職権職務に属していたのであるから、昭和二十三年六、七月当時においては地方教官の任免権は、県知事になく、県教育委員会にあつた、という控訴人の主張もまた失当である。

昭和二十三年六月三十一日附休職辞令書に基く休職処分発令の日時については、原審における控訴本人の供述中「私は昭和二十三年七月十六、七日頃知事に面会したところ、知事は昨日休職辞令書に自分が印を押したと述べた」という部分はにわかに信用することができず、その他に特段の証拠のない本件においては、右処分は同年六月の末日なる同月三十日に発令されたものと推定すべきである。そして当時の国家公務員法附則第七条により、同法施行前に休職を命ぜられた者の休職に関してはなお従前の規定によるべきものであるから、控訴人に対する前記休職処分の効力は官吏分限令の規定に基いて発生しかつ存続したものである。

岐阜県教育会が昭和二十四年五月控訴人に対し休職辞令取消の通告及び新辞令書の交付をしたことは、前記のとおりである。しかしながら、叙上説示のすべての事実と甲第二乃至四号証によつて明かな、右委員会は、右休職辞令取消の通告と同時に控訴人に対し、昭和二十三年六月三十一日附休職辞令書をただちに返戻されたく、改めて同年六月三十日附休職辞令書を交付する旨の通知をしている事実と原審における証人丹羽義一及び同杉山恭(第一、二回)の各証言とを総合して考慮すると、右通告において休職辞令取消という文言を使用したことはやや穏当を欠くところであるが、右委員会の前記措置は、要するに昭和二十三年六月三十一日附休職辞令書の日附を同月三十日に訂正するという趣旨において新に同月三十日附辞令書を交付すると共に控訴人に対し前に交付した同月三十一日附辞令書の返戻方を要請したものにすぎず、同月三十一日附辞令書に基く休職処分自体を取り消してそれがなかつたものとするという趣旨ではなかつた(なお控訴人は、新辞令書を受領したにもかかわらず、旧辞令書返戻の要請に応じなかつた)ことが明白である。したがつて右委員会の前記措置によつても、昭和二十三年六月三十一日附休職辞令書の日附訂正の効果を生じたにとどまり、右辞令書に基く休職処分の効力には影響を及ぼさなかつたものといわなければならない。

これを要するに、叙上の事実関係及び法令のもとにおいて、控訴人が官吏分限令第十一条第一項第四号によつて「官庁事務ノ都合ニヨリ必要」があるとして休職を命ぜられたことは、違法または不当であるといい難く、具体的妥当性を欠くものとも思われない。控訴人に対する退官勧奨及び出勤停止の措置もまた同様違法または不当と解し難く、結局においては休職処分を発令するに至るべき過程としてそれ等の措置がなされたものであることを参しやくして考慮すれば、なおさらである。

以上の次第であるから、右退官勧奨、出勤停止及び休職処分がそれぞれ違法または不当であることを前提とする控訴人の被控訴人県に対する請求は理由がない。

次に控訴人の被控訴人岩本及び同那須に対する請求については、この点に関する原判決理由欄の記載と同一の理由により、失当であると判断する。

したがつて控訴人の本訴請求は全部理由なしとして棄却すべく、これと同趣旨に出た原判決は相当であつて、本件控訴は理由がない。民事訴訟法第三百八十四条第九十五条第八十九条を適用して、主文のとおり判決をする。

(裁判官 北野孝一 大友要助 吉田彰)

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